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『幻の馬』 [2013/05]

競馬専門チャンネル、
グリーンチャンネルで映画『幻の馬』を観た。
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実際にいたサラブレッド、
10戦10勝、
ダービーを勝って死んでいった
トキノミノルという名馬を
モデルにして作られた昔の映画。

白い灯台が立つ海岸近くの牧場。
一頭のサラブレッドが生まれる。
その家の三男である小学生の次郎が名前を付ける。

タケル。

小さな牧場、
タケルが生まれ、
育っていって、
競走馬になって、
ダービーに出走して……
ただそれだけの物語。

厩舎にいるタケルに対して、
主人公の少年がハーモニカを吹きながら
歌を歌う。

その歌に合わせて
タケルも首を左右に振る。

そのシーンだけで、オッケー。
ただそれだけで、オッケー。

静内でも浦河でも新冠でもいいから、
すぐにでも
北海道の日高に飛んで行きたくなる。
仔馬をながめて、
ふにゃふにゃと涙を出したくなる。

そうなのだ。
仔馬を見ていると、
悲しくも悔しくもなんともないのに、
なんだか涙がにじんでくるのだ。


『幻の…』
と言われるものにはだいたい、
不運とか不幸のにおいがくっついている。

幻の名馬。
幻の美女。
幻の名画。
幻の恋。
幻の命。
『まぼろしの市街戦』なんていう映画もあった。

この映画『幻の馬』を観ていると、
人間がなんで競馬なんかして、
ただでさえ少ない金をわざわざ失くしていくのか
よくわかる。

みんな
不運や不幸を求めているのだ。
ちょっぴり劇的な不運や不幸を。

生きていれば、
普通に小さな不運や不幸は身の回りに漂っている。
不運や不幸と一緒に生きていくのは当たり前のことなのだ。
だからって嘆いていてもしょうがない、
できるだけ落胆せず、
できるだけ笑いや涙にして引き受けていく。

ただ、それでも、怖い。
大きな不運や不幸が突然襲ってくることに
無意識の中でおびえている。

だから、
不運や不幸をわざわざ買ってみる。
馬券で金に換えて体験する。
レースを観ながら物語に換えて昇華させる。

競馬を楽しむのは、
馬券を買うのは、
突然のトラブルに備えながら
希望を見失わないようにする
一つの人間の知恵なのだと思う。


今年のダービーは80回目ということで、
新聞やテレビなどで
思い出のダービーについて何かと語られている。

俺にとって
一番忘れられないダービーは、
エアガッツが走ったダービー。

最弱の世代とか言われた年だった。
ま、俺もそう思ったが。

サニーブライアンが逃げ切って、
エアガッツは一瞬伸びかけたのだが、
結局、伸び切れず6着だったと思う。

「幻の馬」と呼ぶような名馬ではないが、
額のデカイ星が今も心に残っている。

引退してから乗馬になって、
武蔵境の大学の乗馬部にいるのをたまたま知って、
一度のぞきに行ったことがある。

その額を見ただけで、
くすくすと笑いながら、
ふんわりじんわり熱いものがこみ上げてきた。

「幻の馬」というのは、
ホントにありがたいものだなーと思った。



『ひまわり』 [2013/05]

映画『ひまわり』をケーブルテレビで観た。
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ソフィア・ローレンと
マルチェロ・マストロヤンニの
イタリア激愛映画。

たぶん今回で4回目の観賞だと思うが、
今までわからなかったことが
今回観ていて初めてわかった。

なぜこの映画のタイトルが
『ひまわり』なのか?

一面のひまわり畑の前に
ソフィア・ローレンが立つシーンがある。
かつて戦場だった土地、
ひまわりの下には兵士たちの死体が眠っている。

そのシーンが
戦争の残酷さを示しているのは
前に観た時にもわかった。

だけど、だからって
『ひまわり』というタイトルにすることに
オレの心の中ではどうも直結しなかったのだ。

だって、それだと
反戦映画の意味合いが強くなっちゃうじゃん、
なんか違うじゃんか、
と違和感を感じていたのだ。


で、今回観ていて、思った。

この映画『ひまわり』は
とにかく群衆を映し出す映画だなーって。

駅で、工場で、結婚式の教会の前で、
とにかく群衆をカメラがとらえる。

そして、
その中にきっといるソフィア・ローレンを、
マルチェロ・マストロヤンニを、
観客は一生懸命見つけようとする。

それがこの映画の主題なのだ。

どこまでも続くひまわり。
遥かかなたまで咲いている。

この果てしなく続くひまわりの群衆の中から、
自分にとって大切な一本を、
あなたは見つけ出せることができるのか?

そう映画は問いかけてくる。

到底見つけ出すことはできない、
どこかであきらめてしまうのが普通ですよ、
いいじゃん、
そんな一輪が見つからなくたって
十分楽しく生きていけるんだからさ。

そんな気持ちを
ソフィア・ローレンの涙が
打ち消していくのだ。

だから、
この映画のタイトルは『ひまわり』なのだ。


今日は次男の遠足。

動物園の入り口まで送って行ったら
他の幼稚園の子や
小学生たちも遠足にやってきていた。

自分の子供がいなくても
子供の群衆を見るのが好きなのは、
その中に誰かにとっての
『ひまわり』が咲いているからだろう。

今週はダービー。

3年前にこの世に誕生したサラブレッドの中から
最強の『ひまわり』を探し出す日。

それは同時に、
その同世代のサラブレッドの走りを思い出しながら、
自分にとっての『ひまわり』を
決める日でもあると思う。


酒とつまみ『もうひとり』 [2013/05]

下北沢のOFFOFFシアターで芝居を観た。
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“酒とつまみ”という名の二人ユニットの芝居、
『もうひとり』。

1時間ちょい。
おもしろかった。
笑った。
くすくす、でへでへ、だはだは。

NHKでやってるミニドラマ、
『野田ともうします』に出演している二人の女優、
村岡希美と池谷のぶえの二人芝居。

小さな部屋、
テーブルの周りに3つのイス。

やってくる客を待ちながら、
愚痴を言ったりケンカしたりホメあったりする
二人の女性。

そのうちに客がやってくるのだが、
もちろん、二人芝居のまま。

観客は見えない“訪問客”を見ながら、
なんとなく
“訪問客”となって、
気持ち、
舞台に上がらされた気分で観ていく。


考えてみると、
俺たちはいつも、
何かそこにはいないものを挟んで、
ネタにして誰かとしゃべっていることが多い。

ので、
会話してたりする時、いつも
そこには誰かが“いない”けど”いる”のだ。
何かが“ない”けど“ある”のだ。

大嫌いな他人だったり。
バカな息子たちだったり。
夕飯の献立だったり。
買いたいモノだったり。
旅行の計画だったり。
くだらない思い出だったり。

そしてそれは
実際に目の前にあるものより
鮮烈な光を発する場合が多くて、
で、
喜怒哀楽を揺さぶられるのだなーと思った。


ユニット名の“酒とつまみ”の由来は
まあ、切り離せないコンビみたいなものだろうか。

酒とつまみ。
映画とポップコーン。
鉛筆と消しゴム。
エロ本とティッシュ。
テントと焚火。
ツチノコと口裂け女。

“酒とつまみ”の次回公演を観に行くことがあったら、
そんな
「切り離せないコンビ」について話をしながら、
下北沢の居酒屋で
酒とつまみを楽しむことにしよう。

あ、
でもそれは“ない”つまみや酒じゃなくて、
ホントに“ある”つまみや酒でね。



トヨタ・グランドキャビン [2013/05]

道具に支配されるのはなんとなく嫌だなあ…
と普段から思っている。
soccergoal.jpg
パソコンとか、
クルマとか、
テレビとか、
スマホとか、
カメラとか、
チャリンコとか。

そんなにモノは持ってない方だと思うんだけど、
それでもグッズというか、
道具というか、
身の回りにあるものを利用をすること--
それを優先に考えてしまっていることがよくある。

例えば、
映画を観ている最中に、
「この映画について
 なんてブログやツイッターやフェイスブックに書き込もうか…」
などと考えてしまっている自分に気がつく。
作品を楽しむことより、
その後にどう語るかについてで
頭も気持ちも奪われているのだ。
しょっちゅう。

休日、
時間があって、
子供たちと何して遊ぶか考える時、
とりあえず、
クルマを動かしてどっか行くことを考えちゃったりする。
電車に乗ってもいいし、
歩いてどっか出かけてもいいのに、
行動を限定している自分がいる。

本末転倒。

ある種のもったいない病かもしれない。

持っている道具の活用を優先して、
いつのまにか縛られている。

ああ、いやだいやだ、
こんな自分、ちょー嫌だ!

と思っていたが、
この前の春休み、
沖縄に行った時にちょっと考えが変わった。


那覇に着いて、
予約していたレンタカー屋さんに行った。

8人乗りのホンタ・ステップワゴン、
もしくはそれと同じクラスのクルマを予約していたのだが、

「お客様、もしよろしければ、
 グランドキャビンに変更してもらえませんか?
 ガソリンは満タン返ししなくて結構ですので」

みたいなことを言われて、
そりゃ面白いと思って、借りてみた。

10人乗りのワゴン。
トヨタ・ハイエースの人たくさん乗せ仕様のクルマ。

でかい。
長い。
今までこんなの運転したことがない!

運転席に乗り込む時に
「よいしょ!」
っと掛け声をかけながらじゃないと登れない。

前輪がおしりの下にあって、
ハンドル操作のタイミングが違う。

駐車場に入れる時は
かなり前から回していかないと
思った場所に止められない。

最初はちょっとドキドキしたが、
運転しているうちにかなり楽しくなった。


沖縄で宿泊していた宿は、
猫がやってくる古民家。
高台にあって、
宿の手前に細い道の急な上り坂がある。

その道を鋭角に曲がる時、
最初は切り返して登っていた。

半分登って、
一度バックして方向を変えて、
もう一度登る。

何回か登っているうちに、
切り返しなしで登ってみようという誘惑にかられて、
一気に曲がり角の内側を攻めてみた。

ぎゅるぎゅるぎゅるぎゅるるるるるる!

タイヤが滑る!
青い煙が出る!
ゴムの焦げる匂いでいっぱいになる!!

一瞬、
バックもできない状態、
身動きできない状態に追い込まれたが、
なんとかかんとか後ろに下がって危機回避、
やっぱり、
切り返して大回りで登った。

一難去って、思った。

こういうでっかいクルマ、
たくさん人を乗せられるクルマを買って、
それが邪魔にならない場所を探して、
そこで暮らしてみるのもいいんじゃないかって。

街には住めないかもしれない。
広い駐車場も必要になるだろう。
遊びに行くところも限定されるだろう。
生活自体は不自由になる可能性が高い。

そんな意味なくでかいクルマを所有することで
逆に捨てなきゃならない事やモノや時間が
どんどん出てくるだろう。


ああ、そうか、と思った。

それがいいんだと思った。

俺は便利なモノを捨てたいんだなと。

パソコンやスマホや電子レンジや自家用車、
コンビニや近所の大型スーパー……
便利なモノに浸食されて、
知らず知らずのうちに支配されてしまっている
自分が嫌いなのだ。

誰がどう見ても不自由、
自分にとっても意味分からないくらい不便だけど
どうしても必要なモノや時間--
そういうのを抱えて、
愛しながら暮らしていけたらいいなーと思ったのだ。

その一つの例が、
グランドキャビンというクルマ。

他にもそういうモノやコトがいっぱいあるはずだ。

大変で、
面倒くさくて、
やっかいだけど、
手放せないもの。

子供が大きくなったら、
そういうモノをきっと探すのだろう。








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